真瑠璃の音庭

日常を非日常として ∞ art is all, all is art

銀河新年明けて。

マヤ暦のうち、ツオルキンという神聖暦の新年が今日、七月二十六日だ。

 

ということは、昨日、七月二十五日は、時間を外した日。

 

その、いつでも無い日に、SNSのタイムラインで見かけたことが印象的だったので、振り返りを交えて覚え書きとする。

 

 

(今回の時間を外した日は、ツォルキン二百六十月の二十年を締め括るタイミングでもあったそうだ。)

 

 

ちょうど、自身の最初の結婚話をキャンセルし、現在の結婚生活へ入ろうと決めて準備していた頃からのサイクルが閉じ、新たなるサイクルへと入ったことになる。

 

思いのほか紆余曲折のあったこの二十年。

 

人前でも、日常を非日常として生きることををオープンにしてもいいよ、と、自身から自身へ、かなりの純度で、まるりっと許すことが出来てきたのもこの頃だ。

 

あの二十年を超えられたから、見えてくる景色と動きやすさは、すでに感じ取られている(感覚は大体先取りする氣質なのだ)。

 

それでも、時々、痛んだり足を止める感覚がやってくるのは、新たな一歩を進む為の大いなるリリースの反動。

 

それは次第に、浸透し、波も次第に収まっていくだろう。

 

取り戻した純度とともに、自身の仕事に専念する場を整えてきたのだ。

 

 それはきっと、しばし顔は合さないかもしれないけれど、しっかりとココロに刻まれた遥かなる仲間達も、そうなんだろうと思う。質感やスケールはそれぞれのもので、起こっているのだと。

 

それぞれ、祝福のcreation を新たなるところで✴︎

 

                ・

 

追記

 

銀河新年の目覚め、いくつかシンボリックな夢を見た。

 

湧き水を汲む。そのポイントは小さな川になっていて、近くに小さなお社があり、私は水を汲んでから、ご挨拶し、写真を撮っていた。

 

その流れか、別のタイミングだったか、少し曇って白んだ空に幅広の虹と、細い虹と目が合う。その上空には彩雲も。

 

湧き水と、お社、虹。

 

 

 

 

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290726

 

 

 

夕べが紡ぐ、今朝。

 

失敗を単に失敗と思い、落ち込むかわりに、それで引き起こされていくことを素直にみていると、

 

それはただ、為されることが完了されていくなのだとわかってくる。

 

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宇宙は手段を選ばない。

起こることは起こるだけで。

 

 

そこで波立てるのは感情。

 

 

喉元過ぎれば、想像以上の恩寵にあったことを、やはり認めざるを得ないのだ。

 

 

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 そんな、マワリテメクルあれこれが、さらに深いところで調整が起こり、腑に落ちていった梅雨の晴れ間。

 

 

 

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そんな時は、逆にベタなところで整頓されていく。

 

店先の花に誘われてスイカのハイビスカスティと抹茶エッセンスを補給✴︎

 

 

 

 

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 もう利用していなかった店なのだけど、こんなコミュニケーションは好きだ。

 

 

 

 

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 期せずしてお迎えした、サムハラサンの指守り。

ここしばらくの流れが道付けてくれていた。

 

 

 

 

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梅雨も、そろそろ開けそうな報せ。

 

まっさらな心で、本来のホログラムを眺める。

 

 

 

290714-15

 

 

 

 

 

日日の贈り物。

 

 

食用トマト、種取りトマト、青紫蘇さん、ピーマンさんは葉っぱさんも。

ミントの刈り取りの間に間に、収穫。完熟トマトはほぼ採ったので今朝はこれ+アルファ程度。

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豪雨が何度かやってきたからか、なんなのか、この数日完熟を待たれるトマト達は表面が少しマダラ氣味・。


蝉の声に、一瞬雨の音が降る。
飛行機の音が通り過ぎて、
朝の散歩の音が時折り鳴る。
不思議と人の声はお隣さんから
すこし漏れる程度。


最近よくこんな瞬間があって、

いま世界には小さな音庭と、
私しかもう残っていないんじゃないか。
なんてことがふと浮かんだり。


いろんな人人
いろんな情報
見えたり聞こえたりするけれど、


すべては何と無く映されるものであって、


呼吸するこのハートの周辺と、家族と、やりとりがある何人かはとても実をもって感じられる存在。


その辺りをよりたんたんと大事にしたいし、流れる起こる所作を慈しむひとときをマナザシ、味わい、見届けようとする衝動を自覚している。


その所作が、たまたま、
隣でマナザスことだったり、
ひとり、ふと、うたうことだったり、
言ノ葉を声にのせることだったり。。。


そんな、数えきれない刹那を
思う朝。


290713

松陰と文

 

吉田松陰という人物は以前から氣になる方であった。

 

とはいえ、そこまで詳細に渡り調べることはこれまで無かった。

 

ただ、数年前、九州へ向かう際、萩訪問がようやく叶った。松陰神社、生誕地、墓地へ立ち寄ったけれど、やはり、印象深い土地だった。

 

着いた日の夕方、用水路が小川の中州(?)で涼んでいた時のこと。書くものを車に忘れて困っていると、その足下に傷一つ無い新しいボールペンが落ちていた。。。出来過ぎだった。

 

まず、萩の松陰神社へ着いた瞬間、すでに体感があったのだ。その土地が、本当に生きた活きたものなのだ。もしかすると、即物質化なのか、あるいは、限りなくクリアなシンクロが起こり得るところなのだろうか。

 

自身にとって、ご縁のある周波数帯だったのか。

 

思えば、まさにその時期、『花燃ゆ』が次の年の大河で放映されるという告知が始まった頃で、あちこちにノボリが設置されていた。

 

結局、リアルタイムでは視聴しなかったが、いまが私にとってのタイミングなのだろう。

 

 

                               ✴︎

 

 

松陰の動きというのは、いまの時代と、ある意味リンクして思える。

 

(それもあってか、数年か前に超訳シリーズで松陰さんの言ノ葉が出版されていた)

 

松陰を突き動かしたものは、より普遍的な叡智だったからだろう。周りの者もそれを心得て、心から支持されていた御様子。

 

松陰を陰で支える最たる者が、妹の文さんだった。

吉田松陰が動いたひとつひとつの闇を受け入れ、苦しみつつ、その暗い側面に灯火を添え続けていたのだ。


理念のスケールと、日日の暮らしとのギャップ。そこに起こる感情の波を超えたからこそ、また踏み出せる一歩。

 

理解されなくても、それでもやはり、その様に生きること。それは、松陰も文も、等しく。

 

 

松陰の美化は避けたいけれど、周りの支持に氣兼ねる分、ただとにかく進む松陰。

 

生き抜く。肉体を後に残しても尚、生き続ける魂の叫び。

 

その姿には共感せざるを得ない。

 

 

 

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290710

 

 

 

 

 

午後、梅雨曇り。

 

 

七夕の午後。

 

大好きなギャラリーカフェの店長さんから

すっと伸びる花達を頂く。

 

 

多分、先日お裾分けプレゼントした梅ジュースのお礼。

 

 

梅雨の晴れ間に

夏のキラキラを満喫。

 

 

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昨年の壁塗りと模様替えのお蔭で、

こうして居てもらえる。

 

 

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290707-9

 

 

 

 

 

再訪。サムハラ神社奥の院。(追記・古社での音浴)

 

 

 氏子の女性の方(Zさん)がガイドしてくださる予定の

 いよいよ最後の場所へ向かった。

 

 

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 携帯の充電が切れてしまい、その場所の画像は無い。

 

たとえ画像におさめたとしても確実に不十分なのだろうから、もういいとする。

 

その何かしら大きく大きく包まれた様な空間は他とは明らかに異なるところで、結界の中にあることがわかりやすかった。

 

 

 先に、地元の方がお一人瞑想されていたので、

 

 少し外した場所で、ひとしきりその場の静謐を満喫し、すべてを孕みつつもどこまで

も透明な氣配に圧倒されていた。鳥たちの囀りの響きも、いつになく澄んで聞こえる。

 

しばらくし、人払いされ、少しだけサウンドスケープを録らせてもらった。生駒とは

逆に、録音が始まると、鳥たちの囀りは心持ち控えめになった。

  

          *

 

 その作業の途中、ふとやって来たのが、

 

(ええよ。ここで感じたこと、これからのやりとり、

 好きに、書いてもええよ。)

 

 という言ノ葉(イメージ)だ。

 

 

 私の記憶や思考が作ってるなら嫌なので、一瞬、本当に一瞬、昔の癖で、穿った感じになりかけたのだけど、とにかく、

 

(もう、もうええで。もうええよ。)

 

という、これまでに感じたことも無い安堵につながる感覚に包まれた。

 

それは、大阪に入って、数日経っても引き続きあって。

 

もう一度、(感覚的に)赤ちゃんからやってる感覚とでもいうのかな。

 

 

その季節独特の、爽やかな黄緑の濃淡の世界で、

不思議と虫にも刺されることもなく

 

ご褒美の様なひと時に佇んでいると、

 

八月の再訪は確実となっていた。

 

 

 

ひとしきりして、出発した。

 

 

 

奥の院を後にした後は、延々下道で大阪を目指す予定だった。ナビの機能が進んだのか、はたまた、自身がより深くからチューングされたから、終始ほっとするような静かな森の道を選んでくれてる様だったし、これまで走ったことの無いコースを愉しめた。

 

 

 

最後、大阪のお社にもご挨拶することにした。

 

 

こちらでは月例祭が二十三らしいので、

また訪ねることにする。

 

そういえば、先日、なんとなくお賽銭に二十三を因んだっけ。

 

 

 

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↑ ホーム感溢れる御祭神

 

 

さて。サムハラさんの古社での囀り、他の音と

どんな風に響きあうか、作りながらちょっと愉しみだ。

 

 

290707

 

 

 

 

 

再訪。サムハラ神社奥の院。(ゼロからの一歩とリンクして)

 
 
この度の訪問は、ちょうど梅雨の晴れ間に為された。
 
 
紫陽花も見頃で、参道は、より瑞々しく感じられた。
 
 
 
大阪を朝七時過ぎに出て、二度の休憩をはさみつつも、九時半頃には到着したお蔭か、
 
 
 
雨上がりのお社周辺は想像を軽く超えた清々しい空氣が満ちており、なかなか無い森林浴だった。
 
 
 
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↑ こちらの参道の右手上にサムハラ神社の奥の院

 

 
 
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↑ 駐車場から見ると、奥にあられるのが金毘羅さん。
 
 
   (前回は、たまたま先にこちらへご挨拶していたのだけれど、
 今回参考にさせてもらったいくつかのサイトでは、
 金毘羅さんへ先にご挨拶することを 推奨されていた。)
 
 
 
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前回は、新設間も無い訪問だった様で、お社の白木が眩しかったのが印象に深かった。
 
 
 
それから何年か経ての再訪であるからか、今回は木の色味も辺りの風景に馴染んで
来たように映っている。
 
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実は、↑ このの画像を撮った時にはすでにご挨拶を済ませたのだけど、
 
 
この日これから起こる、いくつかのミラクルのきっかけとなった女性と朝の参道で出逢うのだ。
 
 
 
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仲間と過ごしていた時期でも、基本、巡礼の様な旅には独りで向かっていたが、独りで出かけようが、出先で、出逢う方と出逢う、という半ばお約束のコースが妙に懐かしく、想定外に歓びが溢れるのがわかった。
 
 
 
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その女性は、その辺りに住まわれる氏子さんだ。
 
山の向こうは、鳥取
 
 
その方が、先日富士山へ向かわれる途中、朝、大阪のお社に参拝されていたと知り、
いっきにもりあがった。
 
というのも、私もその日の昼前に、おついたち参りで訪ねていたからだ。
 
いっきに流れがアラワレたなと思う間も無く、せっかくなので、と、お世話人の方に取り次いでくださり、夢にも思わなかった、奥の院ご朱印まで頂けた。その方のお話では、なかなかその世話人の方とも出逢いにくく、ここまでスムーズにご朱印も受け取れないのだとか。
 
ま。この日はとにかくスムーズに到着でき、天候も雨上がりの柔らかな晴天という瑞々しい朝に訪ねられた時点で、すでに、ご祭神からの歓待を受けているのだろうけれど、
 
この女性も、たまたまお仕事がお休みで、農作業の後で来られたので、今回のような
タイミングで出逢えたという。
 
やはり、絶妙に調っていた。
 
宇宙はシンクロで出来ているというのだから、これが普通なのだが。ある時期それに確信を持つ様になってからは、その時の状況に対して極幼少期の様な素直さで順行する様になった。(実際、本当に疑うことを心得ない子どもだったのだ)
 
そして、ご朱印に止まらず、奥の院の古社にもご案内頂き、そのお山(日詰山)の山頂にも
連れて行ってくださるという心づくしに、さすがに人間世界の感覚でいう申し訳ない氣持ちがさすがに出てきた。(でも、こうゆうときって、ただただ為されることが為されている、起こることが起こっている、という状況だから、淡々とした氣持ちで構わないのだ。あっけらかんと。)
 
 
また、八月七日には、その山頂で、有志の方々によるセレモニーをされるそうで、
ぜひに、と声をかけて頂く。
 
 
                 *
 
 
なにより、造化三神さんとは近しきものをずっと感じていた。
 
それが、まだ見ぬ方々と実際に集まって共にお祈りできることは、この時期まさにぴったりの流れに思えた。
 
(ほとんど常に独りのご神事なのだった。)
 
 
 
何事につけ、すでに真新しいフェーズへシフト
しているのだから。
 
 
 
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↑ 真ん中のぽっこりと抜きん出た樹の根本で 八月のセレモニー。
   参加の流れが濃ゆくなるばかり✴︎
 
 
    来月の訪問を胸にし、奥の院を離れ、
  最後に案内くださるというエリアへ向かった。
 
 
 
       サムハラ神社 奥の院
        岡山県津山市加茂町下津川九九八−八
 
        (現在はGoogleMAPで、設定可能かと)
 
 
 
  290703