真瑠璃の音庭で星々とうたう

*星間吟遊詩人のうたと日日の記録*

松陰と文

 

吉田松陰という人物は以前から氣になる方であった。

 

とはいえ、そこまで詳細に渡り調べることはこれまで無かった。

 

ただ、数年前、九州へ向かう際、萩訪問がようやく叶った。松陰神社、生誕地、墓地へ立ち寄ったけれど、やはり、印象深い土地だった。

 

着いた日の夕方、用水路が小川の中州(?)で涼んでいた時のこと。書くものを車に忘れて困っていると、その足下に傷一つ無い新しいボールペンが落ちていた。。。出来過ぎだった。

 

まず、萩の松陰神社へ着いた瞬間、すでに体感があったのだ。その土地が、本当に生きた活きたものなのだ。もしかすると、即物質化なのか、あるいは、限りなくクリアなシンクロが起こり得るところなのだろうか。

 

自身にとって、ご縁のある周波数帯だったのか。

 

思えば、まさにその時期、『花燃ゆ』が次の年の大河で放映されるという告知が始まった頃で、あちこちにノボリが設置されていた。

 

結局、リアルタイムでは視聴しなかったが、いまが私にとってのタイミングなのだろう。

 

 

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松陰の動きというのは、いまの時代と、ある意味リンクして思える。

 

(それもあってか、数年か前に超訳シリーズで松陰さんの言ノ葉が出版されていた)

 

松陰を突き動かしたものは、より普遍的な叡智だったからだろう。周りの者もそれを心得て、心から支持されていた御様子。

 

松陰を陰で支える最たる者が、妹の文さんだった。

吉田松陰が動いたひとつひとつの闇を受け入れ、苦しみつつ、その暗い側面に灯火を添え続けていたのだ。


理念のスケールと、日日の暮らしとのギャップ。そこに起こる感情の波を超えたからこそ、また踏み出せる一歩。

 

理解されなくても、それでもやはり、その様に生きること。それは、松陰も文も、等しく。

 

 

松陰の美化は避けたいけれど、周りの支持に氣兼ねる分、ただとにかく進む松陰。

 

生き抜く。肉体を後に残しても尚、生き続ける魂の叫び。

 

その姿には共感せざるを得ない。

 

 

 

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290710